愛の循環

親子から愛の連鎖

実家へのUターン~父親との会話~

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昔から仲が良かったお父さん。
小さい頃は、お母さんが怖かったからか自然と話をするのはお父さんでした。



私の我慢が爆発したきっかけの一つに、父親に怒鳴られたというのがあり。



味方だったはずのお父さんが、私が反抗期になればなるほど敵になる感覚がしてました。




家族会議という名の尋問。

お母さんがお父さんに助けを求める。
そしてお父さんが私に言葉する。




あー。お父さんもお母さんの味方か。





どうせ言ったって反対するくせに。
どうせ言ったって分かってくれないくせに。



傷つくくらいなら、言わないほうがましだ。



そうやって、口に上がってくる言葉を喉で止めてくっと歯を食いしばっていました。



言葉にすることを悪いこととし、喉に力を入れて黙っていました。



何も言葉を発しない私に、母方の叔父が出てきて話をします。
抑圧されるような言葉かけと、私が悪いんですごめんなさいのテンプレートと
心の奥底にある、なんでお前に話をしないといけないんだという私。


話を聞いてほしいのはお前じゃない。



お父さんに味方になってほしかったこと。
話を聞いてほしかったこと。



そのことを伝えました。




そうしたらね、



お父さん、あの時もっと言えてたら治美を守れたんじゃないかな?って思う。
でも、あの時それを言ってしまったら、お母さんと離婚するかもという状況もあって。
うちの娘だ!って言って介入しないようにできなかったんだよね。

あの時、おじいちゃんとおばあちゃんが、治美はうちの孫だ!って言って、今こそ双方のおじいちゃんたちは仲良くなくなっちゃったけど、治美を守ったのはおじいちゃんとおばあちゃんだと思っててお父さん守ってやれなかったなって思う。❞



そう涙目で話してた。




お父さんは、ずっと私と周りの家族のことで悩んだり傷ついたり。
それでも守ろうとしてくれてたんだなと。




口にして聞いてみないと、すべて私の憶測の中でしかなくて。
憶測を真実だと決めつけて、私も周りも信用できなくて殻に閉じこもることを決めたのは私なんだなと。



父親と向き合えた瞬間でした。

実家へのUターン〜母親との会話〜

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こんばんは。

治美です。

 

 

愛されてなかったわけではないと頭ではわかりながらもどこか受け入れられないまま

 

 

 

面と向かって両親と話をせざるを得ない状況になりました。

 

 

 

 

仕事を休職していたため、生活にも困り始めた私は親に助けを求めないとならない状態に。

 

 

 

 

過去、私が起こした両親の目を引く行動の1つにお金が絡むこともあり、大学中退した負い目もあり、お金のことで助けてと言えず…。

 

 

 

さらにこの時期、イタリアでのリトリートに参加したいということでのお金の部分とローマに行きたいという願望があり(リトリートはベネチアの方)行けるかな?行きたいから行こうという普段はリスクヘッジな私のたまに気持ちが大きくなる勢いでローマに行こうとしてました。

 

 

 

 

 

そりゃもう、親からは大反対と私の猛反発になり冷戦状態。

 

 

 

お金助けてとも言えない。

イタリアには行きたい。

ローマ行きたいもん。

ローマは今じゃなきゃダメ?

 

 

 

 

そんな1人でローマなんて危険な、行かせられないと親は反対。

 

 

 

 

今までの私は、そんな分かってくれないならもういい!行かない!!

 

 

 

 

と、全てを無しにして

 

 

 

ほら、分かってくれないじゃん。。

と悲劇のヒロインになっていたと思います。

 

 

今までと違ったのは、親の言葉を受け取ったら

 

 

心配なんだよ。

 

 

 

ただそこから生まれてる言葉で、イタリア行くことは否定してなかった。

 

 

イタリアは行かせて欲しいと。

帰りはベネチアから帰ってくる。

 

 

ただ、金銭面で助けて欲しいと伝えて、イタリアに行くこともできました。

 

 

その後に母親とこの会話をしたことが私には大きかった。

 

 

 

 

私を手のかかる子、ダメな子だと扱うのはやめて欲しい。

 

 

 

 

いや、まぁ、そりゃいろんな問題起こしてきました。

前回の記事にも書いたように、不登校から中退から、それだって心療内科にかかってるからお金もかかる。

 

 

 

お金をかけてもらうことが目をかけてもらう(愛情をもらう)ことのように私も物事起こしてたけど。

私の人生を豊かにしたい中で、親からのジャッジってまぁ結構なジャブで。

私の人生だ!なんて思いながらも後ろ髪引かれるようなそんな感覚があって。

 

 

 

 

そしたらね、

 

 

 

 

誰もお前をダメな子だなんて思ってないよ?

岡山で1人で生活してて、仕事して、まぁお金はちょうだいって言う時もあるけど、それでも1人である程度工面してやってて。

すごいじゃん。

お前は音楽のイベントやったり、色んな人と知り合ったり、色んな所行ったりして色んな経験してるよな。

 

 

1人で元気に向こうでやってるっていうのはすごいことだと思うよ。

 

 

 

 

 

ってさらっと言われて拍子抜け。

 

 

 

右手の障害で小学校の頃から

リコーダーも図工もみんなと同じにできない。

だから勉強は親の期待に応えられるようにやってきたし、できることは負けたくなかった。

中3から不登校になり、みんなと同じペースで進めないことがどんどん私自身を否定していって。

 

 

 

ダメな子だと扱ってたのは私だったのかーって。

トンカチで頭殴られたような感じでした。

 

 

 

そして、ずっと抱えてた傷や悲しさや怒りをカミングアウト。

 

 

お母さん、昔、私は好きな人と結婚できないかもしれないよ?って言ったの覚えてる?

そこから幸せになれないって思うようになって不幸体質になったと思うんだよね。

 

 

『え?そんなこと言った?

    覚えてない。』

 

 

 

またトンカチで頭殴られました。笑

 

 

『でも、あの時はどうなっちゃうんだろう、幸せになれるかな?って不安と心配でいっぱいだった。』

 

 

心配だったんだよね。うん。

お母さん、でも私はお母さんのその一言で今まで幸せにならない選択をしてきちゃったよ。

 

 

ずっと、どうせ分かってもらえない。と喉のところを塞き止めてたため、無意識で言葉を飲み込む癖がついていた私が、意識して言葉にしたことで、

 

 

私が深刻に考えていて、本人に確認したらそんな深刻なことではなくて。

でも、当時そういう会話ができる環境があったら20年もこんなすれ違いを起こさずに済んだのかもしれないと思いつつも。

そのすれ違いがあったから親と面と向かって話せるようになったのかな?と。

 

 

中学校に上がる前は親っていう存在。特に母親って絶対的な存在で。

真白の恋のお父さんのセリフではないけれど、私を守ろうと思って必死だったんだろうなという当時の母親の感情と共に親の何気ない一言が子どもの人生にこんなにも大きな影響を与えるんだ!と身をもって体験しました。

 

実家へのUターン〜親の愛に向き合う〜

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10年離れた実家へ戻ってきました。
実家に居場所がなかった私がまさか帰る日が来るなんて思ってもみなかった。



私は、一卵性双生児の妹の死と右腕のみの脳性麻痺と共に生まれました。
母方の初孫ということもあり、期待と親の居なくならないでという不安と愛情たっぷりと育てられたなーと。
愛情はたくさんもらったと思う。
その分そこに不安も一緒に乗っかってたけど。



愛はあった。


でも、当時は


敷かれたレールを歩かされる。
やりたいことをやらせてもらえない。
ことごとく否定される。
叩かれる。
怒鳴られる。
不安から過保護、過干渉、過放任になる。
あげく、お姉ちゃんでしょと突き放される。



そうやって不安ばかりを受け取ってた。



あげく、家出、不登校、ひきこもり、拒食、リスカ、タバコ、中退。
色々な問題を起こして親に『本当の私』を見てほしい、甘えたいという心の声が悲鳴をあげて事を起こす。


当の私はそんなの知る由もなく、親が悪い。環境が悪い。と正当化することに必死だった…。


私が10年前実家から離れた理由はまさに


『親から離れたい。逃げたい。』



親なんか嫌い。私のこと認めてくれない。
分かってくれない。否定されたくない。
という感情が強かった。



消えたい
なんで生きてるんだろう
生きづらい、生き苦しい



そんな事を感じながら、生きる意味を欲しながら。



ただ、助けてって、私を見てって。思ってることを伝える術は当時は持ってなかった。



だから大学入試と共にその環境から抜け出すため岡山の大学に行って。
その後も、実家へは帰っていたけど、10年という時間が経つにつれて私の居場所はさらになくなっていき。



実家に帰ってるのにそわそわする。
仕事を休んで実家にいる私を許可できない。
居心地が悪い。



岡山に戻ると帰ってきたと思う。



私にとって実家って帰りたいけど帰れない場所。





ボディワークや瞑想と出会ってから


心と体の声を聞けるようになてきて



愛ってなんだろう?
私は愛されていた?



と自己愛の形成と共に親子の関係性の探究が始まった。





苦しかった。
我慢してた。
甘えたいと思った。
でも甘えちゃダメだって思った。
いい子でいることが私のアイデンティティ
でも私を見てほしいから問題を起こす。

消えたい、なんで生きてるんだろうの疑問。
悲劇のヒロインになることの安心感。




それが、私が幼き日で掴んだ親の愛(目)を勝ち取るパターンの日々。



そこからいい子でいるためにはの頭でっかちな私が居て。
心の声も体の声も完全に無視してたことに気づいた時は衝撃以外のなにものでもない。





その癖は大人になってからはさらに激しく。
仕事でも無理を始め、出社拒否になった。




仕事を休み始めたことで私が私のために時間を使うことができるように変化が起き始めてきた。






そんな時に出会ったこの映画が大きなパラダイムシフトをもたらせてくれたのです。



真白の恋
http://mashironokoi.com/

www.youtube.com

軽度の知的障害を持つ女の子が恋をする話。
田舎のしがらみや世間体を気にする家族のつながり。



軽度の脳性麻痺と私が生まれ育った田舎の風習を重ね合わせながら見てた。





その映画を見てフッと思い出した母親の言葉。



『お前は、将来好きな人と結婚できないかもしれないよ。
結婚する人が右手の障害を良しとしても、家族や親戚に反対されるかもしれない。
そしたら、結婚できないかもしれない。』



小学生の当時の私からしたら相当ショックだった。



でも



母は私が幸せな人生を送れるのか不安だった。



"愛されてないわけじゃない。
私が欲しかった(欲しい)愛情じゃなかっただけ。"









そこに気づくことができました。




私は私を幸せにする選択を自ら選ばないようにしてた。
それが生きづらさに繋がっていたことに気づいたら少しずつ私を好きになるようになっていったんです。